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兆し
久々の我が家はひどく安心できて、睡魔はすぐに襲ってきた。
森での戦闘はユーリィたちを心身共に疲れさせていたし、そこで出会った新しい友だちは気付けば古くからの知り合いのように馴染んでいた。
ようやく会えた師であり旧友である人もいた。生きていると信じていても、それは確信というより切実な願いで、いつも不安と恐怖が共につきまとっていた。
だからみんなで囲んだ夕食は信じられないぐらい美味しかった。
チェリンカが笑っている。アルハナーレムがいる。そんな当たり前で何よりも代え難い光景にナッシュが目を細めている。
ミースがいないことだけが残念だったが、それでも独り味気ない食事を食べていた頃を考えると信じられないほど幸せだった。 きっとミースだってすぐに見つけられる。
幸せの余韻に浸りながら、アルハナーレムは家へと帰り、ナッシュはシチューの名残を惜しむように暖炉の側のソファに横たわった。そして、チェリンカはユーリィの横で安らかな寝息を立てている。
そうやって眠りを貪り始めてからどのぐらい経っただろうか。
(きゃ……っ!)
「!!」
チェリンカの声が心に響いてきて、ユーリィは一気に夢の中から引き戻された。
慌てて跳ね起き、動揺でもどかしくなった手つきをしかりつけながらベッド横の明かりを灯す。
「チェリンカ!」
燭台を掲げて暗がりを照らすと、チェリンカのベッドに何か得体の知れないものが蠢くのが見えた。
「逃げて、チェリンカ!」
叫び、布団を引きはがす。武器を手にしたり身構える余裕など持てなかった。
もう二度とこの幸せを失いたくはない――。
「!」
(あ――)
けれど、布団の中から現れた姿に文字通り言葉を失った。
「……なんだぁ。もう朝か?」
「ナッシュ」
眩しそうに目をこする彼に、ユーリィは肩を落とした。安心と脱力感が同時に襲ってくる。
「どうしてそんなところにいるの?」
尋ねると、何かおかしいかとナッシュが首を傾げる。
「暖炉の火が消えたら、段々寒くなってきたんだ」
「それにしても、どうしてチェリンカのベッドに――」
言って、自分の言葉にユーリィは驚くチェリンカに寄り添っているナッシュを改めて認識した。カッと頬が染まる。
「え、どうしてって――」
「寒いなら、ぼくのベッドにおいでよ!」
答えようとするナッシュの言葉を遮って、無理矢理チェリンカのベッドから彼を引きずり下ろした。どうしてだろう、胸がムカムカする。
(ユーリィ、ナッシュく――)
「チェリンカもそれでいいよね」
戸惑うチェリンカに半ば無理矢理同意を求める。
それだけでも自分の身勝手さに嫌悪感を覚えたのに、チェンリカの言葉を聞きとがめて声を上げたナッシュにまた苛立ちが募る。
「チェリンカ、まだオレの名前覚えてない!」
(だって、ユーリィ以外の男の子を呼び捨てにしたことなんてないもの)
チェリンカがナッシュの名前を特別なもののように扱うことも、僅かでもそれを聞き逃さず間違えるなと怒るナッシュにも、胸が痛んでなんだか泣き出したい気持ちになる。
「ほら、二人とも明かりを消すよ」
ベッド越しに言い合う二人と自分の気持ちから逃れるように、燭台の火を吹き消した。返事は待たなかったが特に文句はあがらず、訪れた暗闇を合図に二人はベッドに潜り込む。
ユーリィも窓から洩れる月明かりを頼りに、再びベッドへと横たわった。
「ちぇっ」
先に枕を占拠していた気配が不満げに舌を鳴らす。
「仕方ないだろ。チェリンカは女の子なんだから」
「そんなこと知ってるさ。女の子だと何かまずいのか?」
窘めると、ナッシュは不思議そうに首を傾げた。
「だってきみは男の子じゃないか」
「当たり前だろ。それがどうしたんだ?」
埒があかない。説得は諦めて、段々と呼吸が緩慢になってきた彼に今度は胸の内のわだかまりをぶつけてみる。
「ナッシュは、チェリンカと一緒に寝たかったの?」
不満だと言うことは、つまりそう言うことなんだろうか。そう恐る恐る尋ねると、ナッシュは眠たげに、けれどあっさりとそれに頷いた。
「ああ」
大きなあくびを一つ挟んで、ナッシュは続ける。
「だって、チェリンカ、イイ匂い…する……」
「――――――――」
ナッシュの言葉は、間もなく寝息へと変わった。
星のさざめきすら聞こえてきそうな静かな夜だった。目を閉じ耳を澄ますと、やがて、落ち着いたのだろう、隣のベッドからも安らかな寝息が聞こえてくる。
けれど、ユーリィは眠りの世界へ戻ることが出来なかった。
胸が鉛のように重い。 やりきれない気持ちを持て余して、ナッシュに背を向けるように寝返りを打つ。
うっすら目を開けると、窓の向う側から自分を覗き込む月と目があった。 濃紺の夜空に滲む光は不吉に赤くて、胸の内の不安を増殖させる。
――――だって、チェリンカ、イイ匂いがする
寝入りばなに漏らされたナッシュの言葉が、ユーリィの脳裏をグルグルと回った。 耳を塞いでも頭の中で響くその声は、ユーリィから離れようとしない。
チェリンカが良い匂いをしていることなど、ユーリィはもうずっと前から知っている。いや、ユーリィだけが知っていたはずだった。
「どうして、ぼくは……」
二人を起こさないよう、ユーリィは口の中でそっと独りごちる。
チェリンカが褒められたら、昔から自分のことの様に嬉しかった。なのに今は、チェリンカの良い匂いをナッシュに褒められたくないと思ってしまう。
それを知っているのは自分だけでいい――。
胸を支配するどす黒い感情に、ユーリィは自分の身を抱き締めた。そして、赤い月の光に、これ以上醜い感情が誘われないよう、ぎゅっと強く目を閉じる。
それでも、身体が小刻みに震えた。持て余す感情に恐れおののくと言うよりも、何かの終焉を確かに感じ取りながら。
*
そう、僕らはずっと二人だけの世界で生きてきたんだ。 今までも、そして。
これからも――――。
'07/09/20