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赤い悪魔
「!!」
びくりと身体を震わせて、チェリンカは目を覚ました。弾かれたように飛び起きて、痛むほど疾走する心臓をパジャマ越しにぎゅっと押さえつける。夢の中から現世に戻ってきたというのに、振り向けばまだ枕の辺りで悪夢と恐怖が渦巻いているような気がした。
月明かりが滲む薄闇の中に夢の世界から追ってきた真っ赤な双眸を見て、チェリンカは幻を掻き消すように強く頭を振った。大きく息を吸って気持ちを落ち着ける。
段々と闇に目が慣れてきて、視界から恐怖が見せる幻が消えていつもの自室が浮かび上がってくる。首を巡らせると、隣でユーリィが気持ちよさそうに寝息を立てているのが見えた。
彼を起こさないようそろっとベッドから抜け出すと、チェリンカは足音を殺して部屋を後にした。落ち着いてきたとはいえ、悪夢の残した恐怖はまだチェリンカの心を黒く支配していた。
「どうした、眠れないのか?」
揺れる暖炉の火を頼りに居間を覗き込むと、僅かな気配に気付いたラトフがチェリンカを振り返った。
「お父さん」
大好きな笑顔を向けられて、チェリンカはラトフの元へと駆け寄る。大きな身体に抱きとめられあたたかな身体をぎゅうっと抱き締めると、ようやく心から悪夢の影を振り払うことが出来た。
「どうした。チェリンカはもう一人で眠れるようになったのではなかったかな?」
言いながら、ラトフはその膝にチェリンカを座らせてくれた。そして、腕の中にチェリンカを包み込んだまま、剣の手入れを再開する。
「眠れるようになったもん」
刃物を扱っている時は大人しくしていないと父の膝という特等席から降ろされるので、置物のようにじっと身体を固まらせながらチェリンカは頬を膨らませた。
「ほう?」
チェリンカの答えにラトフは目を細める。
「ならばここにいるのは誰かな? チェリンカではなく悪戯好きの妖精なのかな?」
からかいを含んだラトフの言葉に、チェリンカは頬を一層大きくする。
「眠れるもん! ただ……」
「ただ?」
聞き返されて、先ほどの恐怖を思い出す。
「――――少し怖い夢を見ただけ、だもん」
俯くチェリンカに、ラトフはふむ…と手にしていた剣を置いた。
「よければ話してみなさい。口に出してしまえば、何だそんなに怖くないと恐怖が薄れることもある」
頭の上から優しい声が降ってきたが、チェリンカは静かに首を振った。
「……覚えてないの」
「何も?」
頷くとラトフはうーんと唸り腕を組む。
「それは困ったなあ」
「あ、でもね!」
困惑するラトフにチェリンカは慌てて声を上げた。
「真っ赤な目がチェリンカを見つめてきたのは覚えてる!」
「真っ赤な目?」
自分を覗き込むラトフにチェリンカはしっかりと頷き返した。闇の中から覗いていたあの赤い瞳は、忘れようにも心に焼き付いて離れない。
「顔はよく分からなかったけど、多分――男のひと?」
「うーん」
チェリンカの言葉に、ラトフはまた唸り声を上げた。
そんなラトフの様子に、チェリンカは不安で心をいっぱいにしながら父を見上げた。自分が父を困らせているのだろうか。
目を潤ませるチェリンカの頭を優しく撫でて、ラトフは笑った。
「それは、きっと幽霊だなあ」
「幽霊?」
目を瞬かせながら聞き返すと、知っているかねとラトフも小首を傾げてみせる。
「ああ、死んでしまったものの魂のことだよ。きっとその人がチェリンカのことを見守ってくれているんだ。だから――」
「幽霊がチェリンカを見てるの? だから怖いの?」
ラトフの言葉を遮って、チェリンカは父の胸に顔を埋めた。そして、自分を抱きとめるあたたかな存在感を確かめるように、何度も何度も大きな身体を抱き締める。
「チェリンカ、幽霊は怖い存在ではない。チェリンカを心配してくれて――」
「うそ! 怖いもん! 幽霊は怖いんだもんっ!」
宥めてくるラトフの声にチェリンカは叫びながら首を振った。どんなにたくましい父の身体にしがみついても、次の瞬間にはふっとその存在が腕の中から消えてしまうような気がして涙が滲んだ。
そう。
ラトフには打ち明けなかったが、チェリンカが本当に怖いのは赤い瞳ではない。その瞳と共につきまとう変えようのない喪失感の方だ。
あの赤い双眸と出会った時、チェリンカはかけがえのないものを失ってしまう。それが確信と共にわかった。 低く飛ぶ鳥を見て雨を予感したり、赤く燃える夕日を見て明日は晴れると予想するよりも、もっと確実で確かな未来。その未来で失われてしまうのは、多分この腕の中のぬくもりなのだろう。
それが怖くて、胸に根付く確信を否定したくて、チェリンカは何度も何度も自分の身体をラトフにこすりつけた。
「うーん、ではチェリンカ。幽霊がダメなら悪魔ならどうかな? 赤い目をした悪魔とか。同じ世界に立っているから話せば友だちになれるかもしれないぞ」
怯えるチェリンカに、ラトフは話の展開を変えた。何とか落ち着かせようとするラトフに、チェリンカはただただ首を振った。口を開けば我慢している涙が溢れ出しそうで、話しかけてくる父に何も答えることは出来なかった。
父の身体は大きく、腕を回してもチェリンカが全て受け止めることは出来ない。 回しきれない部分からラトフの存在が消えてしまうような不安がチェリンカを襲う。
もしこの腕を全て回しきれるなら、未来ごと父の存在を繋ぎ止めることが出来るのだろうか。そう思うと、幼い我が身が恨めしかった。
*
「あの仮面の人だと思ったのよね」
物陰からミース特製スープの瓶へとそろりそろりにじり寄っていく背中を眺め、チェリンカは呟いた。
「何のことであるか?」
チェリンカのペンダントをいじくる手を止めて、アルハナーレムが顔を上げる。
「赤い目の持ち主。小さな頃よく夢に見てはお父さんに泣きついていたの」
思い返してチェリンカは幼い我が身に苦笑する。
「その話なら、ラトフ様に聞いたことがあるのである。チェリンカを幽霊嫌いにさせてしまったと嘆いておられたのである」
「お父さんのせいじゃなくて、単に私が恐がりだっただけなんだけどなあ」
アルハナーレムの言葉にチェリンカは頬を掻いた。気心が知れた仲とはいえ、少し気恥ずかしい。
「ラトフ様にとって、幽霊は後悔の象徴であっても恐怖の対象ではなかったであるからな。そして志半ばに命を落としていったものが、どれほどラトフ様を慕い案じてくれる存在なのか、正しく理解されていたのである」
「………………」
淡々と抑揚無く紡がれる言葉を聞きながら、チェリンカは亡き父を思い目を伏せる。
「ただ、惜しむらくはそれを幼い我が子に伝える術をラトフ様は持ってらっしゃらなかったのである。つまり、そこにチェリンカ、ラトフ様双方の悲劇は生まれたのであるな」
「悲劇、か」
大仰なアルハナーレムの台詞にチェリンカは目を細めた。けれど、幼い我が身が父の言葉も自分が抱いていた予感も正しく理解することができたのなら、今とは違う結果が待っていたのかもしれない。そう考えると、それは充分悲劇と呼べるのだろう。
「それで、何が何だと思っていたのであるか?」
「へ?」
唐突に話題を戻されて、意識を逸らしていたチェリンカは素っ頓狂な声を上げた。
「あ、ああ。うん、赤い目の持ち主のこと」
ワンテンポ遅れて話の流れを理解して、チェリンカはナッシュに視線を戻す。
「ずっとあの目はお父さんの命を奪ったあの仮面の人のものだと思っていたの。赤い目がお父さんを奪っていくとずっと思っていたから」
チェリンカの視線の先で、ナッシュが作りかけのスープに飛びつく。が、即座にそれを察知したミースに大瓶から突き落とされる。
あのいい匂いをさせたスープが、作りかけの時は信じられないぐらいまずいのを知らないんだろうなあ――、二人のやりとりに思わずまた意識が逸れたところをアルハナーレムの声に引き戻された。
「違ったのであるか?」
「うん、違ったみたい」
アルハナーレムに頷いて、また果敢に大瓶へと挑むナッシュへ視線を戻す。
「だって、確かに悪夢は怖かったけど、あの瞳は本当は凄く優しかったの。仮面の下で光っていたような冷たく赤いお月様みたいな光じゃなくて」
だからこそ余計そのギャップが怖かったのかもしれないな。チェリンカはそう微笑んだ。
チェリンカの言葉を聞きながら、アルハナーレムも首を巡らせミースのおたまで撃退されるナッシュに視線を送る。
「ふむ。チェリンカは夢で未来を感じ取っていたのであるな。アーチェス様もよく夢で未来を察知しておられたのである」
納得したとばかり頷いて、アルハナーレムはチェリンカを振り返った。
「では、チェリンカはもう幽霊の恐怖を克服したのであるな。いや、赤い悪魔であるか」
「うーん」
今は全てを理解したのであろう?と尋ねてくるアルハナーレムに、チェリンカはあの日の父と同じように唸り声を上げた。
見つめたままの視線の先で、おたまで殴られた頭をさすりながらナッシュが眼差しに気付いてチェリンカを振り返る。
幼い日に夢見た瞳が、既視感を伴ってチェリンカを射貫いてくる。
「やっぱり、ちょっと苦手……かな?」
途端疾走しだした心臓に、慌ててナッシュからアルハナーレムに視線を戻す。そして、チェリンカは赤く染まった頬を誤魔化すために、悪戯が見つかった子供のように小さく舌を覗かせた。
'07/09/22