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違いのわかる男
「ふぁああ」
街の入り口にある門の上に寝転がって、ナッシュは大きくあくびをした。ぽかぽかと心地よい日の光を浴びていると、どうも眠くなって困る。
一寝入りするのも悪くない考えだったが、寝入ってしまって仲間とすれ違ってしまったのでは元も子もない。もうすぐ買い出しを終えたチェリンカとアルハナーレムが、ナッシュが寝転がる門の下に集まってくるはずだ。
くっつきそうになる瞼をごしごしとこすって、ナッシュは何か面白いことはないかなと視線を巡らした。
レベナ・テ・ラに対するナッシュの印象は、人の手が作り出したまがい物の森だった。広場を中心にすり鉢状に盛り上がっていく街並みは、木々の代わりに石で造られた建物が競うようにそびえ立っている。坂の高低を利用し向かい合う建物の二階と三階を繋ぐといったような通路がそこかしこにあるのも、森で暮らすセルキーたちが木々の間に連絡通路を作るのに似ている。
ただ不思議なことに、この街ではその通路や屋根といった人工の梢を利用せず遠回りをしている人間が多い。だから今こうしてナッシュも、誰にも邪魔されることなく惰眠を貪ることが出来る。
いやいや、貪ってはいけない。眠りの中に入っていきそうになった頭を慌てて振って、ナッシュは眠気をとばした。
「なぁーお」
と、寝ころぶナッシュを邪魔だと鳴く声がする。
「お、ここ、おまえの場所だったか? 悪かったな」
振り向いた先に見知った黒猫の姿を見つけて、ナッシュは目を細めた。
「ここへ来い。おまえ一匹なら一緒に寝転がれる」
そう言って腰の横にある隙間を軽く叩くと、猫は尻尾を立てとことこと歩み寄ってくる。
「?」
そのままナッシュの横を通り過ぎ、門の中央を超した辺りでここが特等席だと立ち止まった。そして、すましたようにかしこまったまま眼下にある大通りを見下ろした。
「なんだ?」
つられてナッシュも通りを覗き込む。
色んな頭が流れていく通りへ目をこらすと、見覚えのあるセルキーの少年とリルティの少女の姿がナッシュの目に飛び込んできた。
どうやら黒猫は彼らを観察しているらしい。黒猫から二人に視線を戻して、ナッシュも彼らのやりとりに耳を澄ませてみた。
「今日はアタシに付き合ってくれるって約束でちたわよ」
一歩先を歩く少年にリルティの少女が怒鳴り声を上げる。倍以上の背丈の少年の耳に少しでも近付くためだろうか。ぴょんぴょんとボールのように飛び跳ねる姿が微笑ましい。
「ちゃんと付き合っただろ? 食い物食って、夕飯の魚釣って、それからさっき道ばたの露天商で買い食い――」
「そんなデートじゃ、色気もクソもないわ!」
付き合った回数を指折り数えていく少年に、少女は露天商で買ったらしいしましまリンゴを投げつけた。それが見事後頭部に当たって、うわあと叫び声を上げながらセルキーの少年が沈む。
「あはは! あいつらほんとバカだな」
二人のやりとりにナッシュは笑い声を上げた。
「一緒にいる理由なんて、なんでも構わない。何故それでケンカする?」
一緒にいられることが、それだけで幸せだと知らないんだ。いや、知らない方がいいのか。森で独り過ごしてきた時間を思い、ナッシュは目を細めた。もうかなり昔に麻痺したはずの胸の痛みが、少しだけ蘇ってくる。
「なんだ? どうしてオレ見る?」
じくじくする胸元に視線を落とすと、二人から視線を逸らして見上げてくる黒猫と目があった。
「え? 一緒にいたいの意味違う?」
語りかけてくる黒猫の言葉を鸚鵡返しに聞き返すと、猫は小さく頷いた。そして、お前にはまだわからないかもしれないけどと付け加える。
「バカにするな。それぐらいわかる。オレ、アイツと違って鈍くない」
そう言って、起き上がったついでに投げつけられたリンゴをちょろまかす少年を指さすが、黒猫はどうだかと視線を逸らした。
「そういう"好き"なら、胸ドキドキする! ちゃんと知ってるさ」
えっへんと胸を張ってみせるが、黒猫は青い瞳でじーっとナッシュを覗き込んでくる。
「えっ? わ、わかってる。くいもんにドキドキするのと、また違うドキドキ」
念を押されて、ナッシュは少したじろいだ。
「オレはまだそのドキドキ、あってないだけ。あったら、すぐわかる。アイツとは違う」
必死に弁明するが、黒猫はナッシュの言葉を聞き終わらないうちに寝そべってしまった。
「くそっ」
丸まり、はいはいとばかり尻尾をぱたぱたさせる猫に、ナッシュは唇を尖らせる。
「そんな所にいたのであるか!」
もう一度ふて寝しよう――、そうナッシュも寝転がろうとしたところに、下からアルハナーレムの声がかかる。
「終わったのか!」
縁に手をかけぐるりと上半身を放り出し下を覗き込むと、買い出しの荷物に囲まれたアルハナーレムがぱたぱたと手を振ってきた。
「チェリンカがまだであるが、すぐにやってくると思うのである」
アルハナーレムの言葉通り、金色の髪を揺らしながら見覚えのある人影がこっちに走ってくる姿が見えた。
特に目立つ格好をしてなくてもチェリンカは誰よりも目立つから、ナッシュはどんな人混みの中でも彼女の姿はすぐ見つけることが出来る。
「アールー!」
アルハナーレムの名前を叫びながら駆け寄るチェリンカに、ナッシュも門の下へと身を躍らせた。
どうしてチェリンカはアルハナーレムに抱きつくクセがあるのかな。そんなことを考えながら地上に降り立つ。
が、考え事をしていたためか、ナッシュは失敗した。チェリンカが飛びつこうと地を蹴ったその軌道上に着地してしまったのだ。
「アぁぁぁルぅぅうう!!」
そして、チェリンカはアルハナーレムではなくナッシュに抱きついた。
「っ!?」
驚きに声は出なかった。叫ぶより早く、ふわりと舞ったチェリンカの髪がナッシュを包み込んできて、甘く良い香りが鼻腔をくすぐり声を奪った。
「アルっ!」
耳元でチェリンカの声がする。吐息がナッシュの耳朶に触れる。
勢いがついているものの、跳ね上がるチェリンカの身体を抱きとめると何とか倒れ込まずに踏ん張れた。
柔らかい。そして、抱きとめた身体に第二の衝撃がやってくる。まるで、ナッシュの知らない生物のようだ。
気付けば全身の体温が上昇し、心臓が痛いぐらい早鐘を打っている。何か危険が近付いているのかもしれない。
「なんだ、チェリンカ! ちょ、なんだ、チェリンカ!? おかしい! オレ違う!」
久しく使っていなかった言葉が上手く操れないのではなくて、そもそもまともに考えることすら出来ずにナッシュはわめいた。
「あ、ごめん!」
慌てるナッシュに間違えたことに気付いたチェリンカが離れても、混乱は治まらなかった。
何故かチェリンカの顔をまともに見ることが出来ず、ナッシュは彼女からあさっての方向へ視線を外す。
と、門の上からナッシュを覗う青い目が見えた。
黒猫はナッシュと視線がぶつかるとにぃいと三日月のような目を細めた。
*
「ナッシュ、ナーッシュー!」
ナッシュを呼ぶチェリンカの声がする。途端、心臓が疾走しだした。
慌てて辺りを見回し、隠れられそうな場所を探す。
しばし迷ってアルハナーレム宅の裏手に回り、開け放たれた窓からこっそり中へと忍び込んだ。
「ん? ナッシュ、どうしたのであるか?」
侵入者に気付いたアルハナーレムが、読んでいた本から顔を上げる。
「ナッシュー!」
それに答える間もなく、チェリンカの声が近付いてくる。
「ナッシュ、チェリンカが呼んでいるので――」
「!!」
アルハナーレムの言葉を聞かずにナッシュはきょろきょろと部屋の中を見回し、見つけた本棚の隙間へとその身を滑り込ませた。
そして、何事かと首を回すアルハナーレムに、しぃーっと拝むように人差し指を立てる。
「ねえ、アル。ナッシュ見なかった?」
チェリンカが家の中へやってきたのはその直後だった。
「う、そのまあ、見なかったかと問われれば、今日の朝食はみんなで摂ったであるからして、その時に見たと言えば見たのであって――」
「もう。そうじゃなくて、今見なかったかどうか聞いているのっ」
しどろもどろに答えるアルハナーレムに、チェリンカは頬を膨らませる。
「そうであったであるか。……で、チェリンカは何故ナッシュを捜しているのであるか?」
そう話題を変えながらアルハナーレムはちらりとナッシュの隠れている本棚を一瞥する。
「何か、悪戯でもしたのであるか?」
アルハナーレムの視線にナッシュはどきりと震えたが、チェリンカは気付かなかったらしい。
「ううん。……ただ、ここ最近、ナッシュにちゃんと会えないの」
そう言って顔を伏せる。
「会えない――って、今朝も一緒にご飯を食べたのである」
アルハナーレムの問いに、チェリンカは静かに首を振った。
「そうじゃなくて。必要最低限にしか会えないの。後はなんだか逃げられちゃうみたい」
「………………」
「さっきもね、ナッシュの姿を見かけたと思ったんだけど、声をかけたらすぐに逃げちゃった」
肩を落すチェリンカの両手が、何かを堪えるように拳を作る。本棚の影から様子をうかがうナッシュにも、それがはっきりと見えた。
「きっと、気のせいである。さっきはおそらく、何か用事を思い出したのである」
俯くチェリンカに、アルハナーレムは優しく声をかけた。後ろ姿と仮面で表情は見えないが、おそらく微笑んでいるのだろう。
「でも――」
不安そうに顔を上げるチェリンカに、アルハナーレムは指を立ててみせる。
「賭けてもいいのである。このあとナッシュからチェリンカに声をかけてくるのである」
「……………………」
それでもまだ納得がいかないといったチェリンカに、アルハナーレムは続けた。
「もしこの予想が当たったのであるならば、夕食の皿にはほしがたにんじんを一つ多く入れて欲しいのである」
そう言われてチェリンカはようやく笑顔を覗かせた。
「うん、わかった」
微笑みそして気合いを入れるように両手で頬をぺしんと叩くと、扉へと踵を返す。
「じゃあ、私、ちょっと他の場所も探してくる!」
「わかったのである」
頷き、チェリンカの姿が扉の向こうに消えるまで見送ると、アルハナーレムはナッシュの隠れている本棚を振り返った。
「で? どういう事であるか?」
うながされ、ナッシュは本棚の隙間から這い出した。
「オレ、なんかおかしい」
「言われなくてもおかしいのである」
上手く言葉を見つけられずしどろもどろながらに答えると、それをアルハナーレムがずばりと切って捨てる。
「あの日からチェリンカまともに見れない」
「――――――――」
あの日がいつなのか。それを追及することもなく、アルハナーレムは静かに耳を傾ける。
「チェリンカ見ると、胸痛い。呼ばれても、逃げたくなる。オレ、おかしい」
言いながら、違うとナッシュは頭を振った。見なくても、こうして話しているだけで胸が痛い。
「――――そうで、あるか」
ナッシュの言葉を黙って聞いていたアルハナーレムは、やがて深く息を吐いた。
「それなら、仕方ないのである」
「……………………」
そう言われても、ナッシュの胸は一向に晴れない。
「しかし、避けてばかりではチェリンカに嫌われるとは思わないのであるか?」
「え――?」
予想外の言葉に、ナッシュは目を見開いた。
チェリンカに嫌われるなんて、考えたこともなかった。けれど、確かに彼の言うように避けてばかりでは嫌われても無理はない。
「ナ、ナッシュ? どうしたのであるか!?」
気付けば両目から涙が溢れ出していた。チェリンカに嫌われる。そう思っただけで、さっきとは比べものにならないほど胸が痛い。
「オレ、チェリンカに嫌われたくない」
「なら、今すぐ会いに行くのである。ほしがたにんじんも懸かっているのである」
「――――――――」
それでも、チェリンカの事を思うとまた心臓がドキドキと走り出し、足が怖じ気づく。
「ん?」
と、何かに気付き、ナッシュは早鐘を打つ胸に自分の手を重ねた。
「その胸の痛みとチェリンカに嫌われるのと、どちらか好きな方を選ぶのであ――」
「そっか!」
更に諭してくるアルハナーレムの言葉を遮って、ナッシュは叫んだ。それからこぼれ落ちた涙をごしごしと腕で拭う。
唐突にわかった。チェリンカの事を考えると、胸が"ドキドキ"する。
「ど、どうしたのであるか?」
突然の声に怯むアルハナーレムに、ナッシュはにぃいと笑った。あれだけ逃げ出したくなった胸の痛みが、今は嘘のように嬉しい。
「オレ、チェリンカのとこ行ってくる! チェリンカに嫌われる方の痛み耐えられない」
そう言って、展開について行けずに戸惑うアルハナーレムを置いて扉を飛び出した。
「なんだかよくわからないのであるが、健闘を祈るのである」
後ろから小さく聞こえるアルハナーレムの声を聞きながら、ナッシュは嬉しさのあまりもう一度にぃいと笑みを浮かべる。
「ほらな。オレ、ちゃんとわかっただろ?」
そして、自分を見つめてきた黒猫の青い瞳を思い出し、目を細めた。
'07/09/24