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Chelinka
――inka。
木の枝を走らせて、ナッシュは土の上に文字を刻んでいく。
「ふぅ」
ずっと繰り返していた単語がまた一区切りついて、ナッシュはそこでようやく顔を上げた。
辺りはナッシュが綴ってきた不格好な文字で溢れている。
「むっ?」
長々と綴ってきたわりには進歩の跡が見られず、ナッシュは顔を顰める。
それでも、上達した部分がどこかあるかもしれない。自分を取り囲む遠くの文字とすぐ足下の文字を見比べ、ふとナッシュは声を上げた。
「お?」
慌てて綴ってきた文字たちを蹴散らしながら少し離れた場所にある文字の元へと駆け寄ると、その前にしゃがみ込む。
綴ってきた文字とは一線を画して美しいその文字は、綴られてから時間が経ったためか消えかかっていた。
ナッシュは手にしていた木の枝を脇に置くと、消えかかった文字の上に人差し指を重ねた。
そして周りの地面からもう一度浮かび上がらせるために文字をなぞっていく。
Chelinka――と。
*
村はずれの丘を登ると切り立った崖に出て、そこから村を取り巻く山々を一望できた。この村が隠れ里といった印象を受けるのは、この山々が外界と村とを隔てているからだろう。
眼下には大きな湖が広がっていて、昼間は青い水面が鏡のように山々を映している姿を臨むことが出来た。
しかし夜の帳が下りている今は、水面は昏く塗りつぶされている。代わりに湖の上を無数の光がゆらゆらと漂い、闇の中に湖の姿をぼんやりと浮かび上がらせている。
その幻想的な光景に、ナッシュは目を細めた。
黄緑の冷めた光は、人の魂を思わせた。それが尾を引きながら天へと上っていく。
そして傷ついた魂は癒しを得るのだ、だから悲しむことはない――。神獣はそう教えてくれたが、哀しいほど綺麗なその光景に寂しさを感じずにはいられなかった。
死んだ者の魂がそうやって癒されるのならば、捕らわれているのは生きている者ばかりである。
「……………………」
ナッシュは目を閉じると、静かにそしてゆっくりと息を吐いた。
ここは、あたたかくそして寂しい。
それは、ナッシュが今まで孤独の中に身を置いていたからかもしれない。自分のものではない眩しい光景に、羨望と共に鈍い痛みがやってくる。
けれどそれだけではなく、例えば目の前の光景とか、ふとした瞬間にユーリィやチェリンカが見せる表情とか、唐突に途絶える会話だとか、そこかしこに寂しさの影が潜んでいる。
何より、そんなときの空気が新参者のナッシュを拒むように強張っていて、身の置き場のない自分が一番やるせなかった。
きぃいい――と、背後から扉の開く音が響いてくる。何事かと寝静まった村を振り返ると、丘の袂にある家から出てくる人影が見えた。
夜目は利く。ナッシュは目をこらし、人影――チェリンカの後ろ姿を見つめた。
ナッシュの視線の先で、チェリンカはひたすら家の隣を気にしている様子だった。彼らの家の横にある空き地には、ユーリィが作ったという父親の墓がある。
ならばおそらく父の元へ行きたいのだろう。うろうろする彼女を眺めながらそう考えていると、チェリンカは踵を返し、墓とは反対のナッシュがいる丘へと足を向けた。
「――――――――」
丘を登ってくるチェリンカに、ナッシュは顔を顰めた。彼女の纏う空気が寂しく胸に痛い。
「ちぇりんか」
目の前にやってきた彼女に声をかけると、チェリンカはようやく顔を上げてナッシュの存在に気付いた。
(びっくりした。こんなところでなにしてるの?)
ナッシュの姿に目を瞬かせ、眠れないの?とチェリンカは切ない微笑みを向ける。また、つきん…と胸が痛んだ。
「ちぇりんかも、だろう?」
("チェリンカ")
その追及を躱すように、チェリンカは微笑みながらナッシュのおぼつかない口調を正す。
「チぇりンか」
彼女の発音を真似て口を動かすが、長年使っていなかった言葉は上手くナッシュの思い通りに紡がれてくれない。
("チェリンカ")
「ちェリんか」
全てに舌が回らないわけではないのに、チェリンカの音の組み合わせはナッシュを悩ませる。
なんだか悔しくなって、ナッシュは親指で自分を指し示しながら声を上げた。
「オレ。オレは?」
(ナッシュ――)
"クン"と続けそうになったチェリンカは、慌てて語尾を呑み込んだ。そしてへへんと笑ってみせる。
「ちえっ」
ちゃんと名前を覚えてくれたのは嬉しいが、今はちょっと悔しさ倍増だ。唇を尖らせるナッシュに、チェリンカは笑みを深めた。
(いつか、ちゃんと呼んでね)
それからナッシュの隣に座り込み、夜に浮かび上がる湖へと視線を落とす。
「――――――――」
ナッシュは足下のチェリンカに目を細めた。結局うやむやのまま上手く誤魔化されてしまった。
ため息を一つ吐き、ナッシュもチェリンカの横に腰掛ける。
「泣くのか?」
しばらくそうして彼女の横顔と光る湖とを眺めていたが、切なさに耐えられなくなってナッシュは口を開いた。
(え?)
ナッシュの問いかけに、チェリンカは目を丸くしながら振り返る。
暫しの間、目を瞬かせながらナッシュを見つめていたが、真っ直ぐ見つめ返しているとやがて観念したように首を振った。
(ううん、泣かない。だってお姉ちゃんだもん)
今度は誤魔化さなかったが、よく分からない理由を口にしたので聞き返す。
「お姉ちゃん?」
(うん、そうお姉ちゃん。ユーリィより先に生まれたんだもん。泣くわけにはいかないよ)
ユーリィに頼られこそすれ、頼ったり頼り甲斐のない様子を見せるわけにはいかない。そう言ってチェリンカは笑った。普段よりももっと大人びた笑顔だった。
「――――――」
その笑顔に眉を顰め、それから思い当たった事柄ににぃいと笑みを浮かべる。
「じゃあ、オレお兄ちゃんだな」
(ナッシュが?)
心底驚いた顔を向けるので、ちょっとムッとしながらちょいちょいとチェリンカの手のひらを招き寄せる。
そして、差し出された手のひらに自分の手のひらを重ね、ほらオレの方が大きいと掲げて見せた。
(だって、ナッシュは男の子じゃない)
そのまま小さな手のひらを包み込むと、チェリンカが拗ねたように頬を膨らませる。
「へへっ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの前だ、泣けるか?」
(もう。じゃあ、ナッシュ、"チェリンカ")
自分を指し示しながら問いかけると、チェリンカから反撃が返ってくる。
「む。ちぇリンか」
予想外の反撃に少したじろぎながらも、ナッシュはチェリンカの後に続いて復唱する。
(チェ、リ、ン、カ)
「チェ、い、ん、か」
やはり上手く発音できない。 苛立ちに頭を掻きむしると、その様子を見てチェリンカが目を細めた。
(ちゃんと名前を呼んでくれないのに、お兄ちゃんだなんて変だもん、へーん!)
まるで年相応の子供のように笑う。
「………………」
(名前を言えるようになるまで、"お兄ちゃん"はお預けだね)
無邪気な笑顔に見とれていると、またしてもうやむやの内に決められてしまった。
しまったと息を呑むナッシュに、ほらこう書くんだよとチェリンカは地面に指を走らせた。
*
「チェ、リ、ン、カ――」
一つ一つ発音しながら木の枝を走らせていると、チェリンカが丘を登ってくる姿が見えた。
(ナッシュー! 夕ご飯何がい――――)
叫びながら駆け上がってきて、そして登り切ったところで驚きに足を止めた。
辺り一帯にびっしり綴られた名前の中心でナッシュは立ち上がる。
「オレ、覚えた」
そして文字から顔を上げたチェリンカを真っ直ぐに覗き込み、その名を呼んだ。
「チェリンカ」
息を呑むチェリンカににぃいと笑って、ナッシュは続ける。
「お兄ちゃん、だな」
言いながらチェリンカの前に歩み寄ると、彼女は複雑な笑顔を浮かべてナッシュを見上げてきた。
(バカ)
目尻が少し滲んでいる。それを指で拭い、ナッシュは唇を尖らせた。
「バカとはなんだ。チェリンカこだわる、そっちのがバカ」
拭ったは良いが、先ほどまで地面をいじっていたせいで涙の痕が土で汚れる。
「あ、悪い」
慌ててごしごしとこするが、汚れは広がっていくばかりだ。
(もういいよ、"お兄ちゃん")
焦るナッシュの手に手を添えると、チェリンカはナッシュに向けて微笑んだ。微笑むその目が涙を堪えているのが、今度ははっきりとわかる。
(ユーリィには、秘密ね?)
「ああ」
頷くと間髪入れずにチェリンカが飛びついてきた。
(お父…さん……っ)
腕の中ですすり泣くチェリンカを、ナッシュは強くその声を遮るように抱き締めた。彼女の泣き声が誰の耳にも届くことのないように。
包み込んだところで、彼女の声は直接胸に響いてくるから意味はない。けれど、止め処なく溢れる涙を今までずっと堪えていた彼女の強がりを思うと、少しでも嗚咽を上げるチェリンカを隠そうとせずにはいられなかった。
自分以外の誰の目にも触れないように、強く強く――。
'07/09/26