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最後の欠片
その子はひどく怯えた目を向けてきた。
大きな瞳に滲んだ涙がポロリと落ちたので、思わず震える身体に手を伸ばし、そっとそれをすくい取った――。
*
逆さまに座った椅子の背もたれに顎を預けながら、ナッシュは窓辺で髪を梳くユーリィとチェリンカを見つめていた。
ナッシュとは違ってきちんと椅子に腰掛けたチェリンカの背後にユーリィが立ち、ブラシをゆっくり丁寧に動かす。そのたびに彼女の金色の髪が光に透けてナッシュの目を釘付けにした。
そうやってしばらく髪を梳かしていたが、やがて金の髪が掴んでも手の内からさらさらとこぼれ落ちていくようになると、ブラシを置いて今度はサイドの毛を編み始める。
「なんでユーリィがチェリンカの頭やるんだ?」
無言で二人の様子を眺めていたナッシュだったが、そこでようやく抱いていた疑問を口にする。
「それ、おもしろいのか?」
問われて二人は同時にナッシュを振り返った。タイミングも目を瞬かせる様子もそっくりである。
「なんで――って、習慣だからかな。父さんがいなくなってからずっと、チェリンカの髪を編んでいたのは僕だったし」
(えっ?)
ユーリィの答えに、ナッシュではなくチェリンカが驚きの声を上げる。
(ずっと……って、ユーリィ、私の意識がなかった間も編んでくれてたの?)
目を丸くしながら振り返るチェリンカを、同じく目を丸くしながらユーリィが見つめ返した。
「気付いてたんじゃなかったの? じゃあ、チェリンカはどうして毎日僕が髪を梳かしていると思ったんだい」
問われて、チェリンカは少し言葉を詰まらし視線をユーリィから外した。
(――ぶ、不器用だから)
呟いたその頬がほんのりと赤い。
そんなチェリンカに、ユーリィは目を細めて笑った。
「あはは、それもあるね。皮付き野菜のスープは我慢して飲めるけど、せっかく綺麗な髪なのに、めちゃくちゃになっちゃったら勿体ないしね」
「皮が付いてた方がうまいぞ?」
本気でそう思うのだが、何故か頬を膨らませたチェリンカに睨まれてしまった。
そうこうやり取りをしている内に、ユーリィの指がするすると器用に髪を編んでいく。それがあまりにも見事でユーリィの表情があまりにも幸せそうなので、ナッシュは椅子から立ち上がった。
「それ、オレやりたい」
そう言いながらブラシを渡すよう腕を伸ばすと、ユーリィの笑顔が歪んだ。
「え? ダメだよ!」
そして、彼にしては珍しく語尾を荒らげる。
「どうしてだ?」
反対されると余計にやりたくなる。ユーリィとにらみ合ってナッシュも苛立った声を上げる。
「どうしても!」
けれどユーリィはナッシュの言い分を取り合うことなく顔を逸らし、そこで無理矢理話を打ち切った。
「いいじゃないか。ケチ」
そう唇を尖らせても、もう振り返りもしない。そして、険悪な雰囲気にハラハラと二人を見比べながら所在なさそうに身体を揺らすチェリンカの髪を素速く編み終えてしまう。
仕方なしにナッシュはもう一度どすんと椅子に腰を下ろした。
「はい、終わったよ」
わざと立てられた大きな音を無視して、ユーリィは明るい声を上げた。そしてチェリンカの肩をポンと叩くと、声とは裏腹にひどく据えた目で虚空を睨む。
「もう、チェリンカは誰にも触らせない」
「!!」
低い、低い声。まるで、この世の全てに対する呪詛のようにも聞こえた。けれど、ナッシュが息を呑んだのは、ユーリィの変貌に対してではなかった。
「チェリンカ!」
思わず椅子を蹴って立ち上がる。
「え?」
状況を把握できていないユーリィの手を離れ、チェリンカの身体が傾ぐ。
そして、チェリンカは大きな音を立て床に転がった。
*
「うーん……」
ベッドに横たわるチェリンカを前に、アルハナーレムは唸り声を上げた。
「どうなの、アル?」
青い顔をしたユーリィが声をかけるが、アルハナーレムの唸り声は変わらない。
「うーん……」
腕組みを解いて、アルハナーレムはもう一度チェリンカを覗き込む。
窓縁に腰を下ろしてそのやり取りを見守っていたナッシュも、つられてもう一度横たわるチェリンカへと視線を移した。
枕に頭を預けるように寝かされたチェリンカは、その瞼を閉じてはいなかった。けれど三対の瞳に覗き込まれても、人形のような表情に変化が生じることはない。碧緑の瞳は不安げに覗き込む誰の顔も映さず、光すらも映さず、ガラス玉のように無機質で生命の気配がない。
「父さんが死んでから、チェリンカはずっと"こう"だったんだ。でも、アルを探しに行く直前にまた僕を見てくれた。なのに――」
ユーリィは俯き震える唇で言葉を絞り出した。
「また、前みたいに僕を見なくなっちゃうの? どうしてっ!」
「……………………」
そして堪えきらずに叫ぶと両手に顔を埋める。その肩が子供のように震えていた。そして、ナッシュはユーリィがまだ一人前と呼ぶには遠い子供であることを思い出す。彼も横たわるチェリンカも、自分と同じかそれ以上に大人びているのですっかり失念していた。
「心が壊れているのである」
反応を示さないチェリンカの前で手を振ったり炎をちらつかせたりしていたアルハナーレムは、やがてぼそりと呟いた。
「え?」
ユーリィが血の気のない顔を上げる。それを静かに見つめ返して、アルハナーレムは続けた。
「いや、"壊れていた"と言うべきであるか。いやしかし、今現在同様の症状が起こっているのであるからして、やはりここは"壊れている"と表現するのが――」
「だから、一体どういう事なのっ?」
アルハナーレムの長々しい説明に、ユーリィが苛立った声を上げる。
「つまりであるな。ユーリィ、チェリンカが心を失った時、何を願い何を欲したか覚えているであるか?」
「僕、が……?」
目を瞬かせるユーリィに、アルハナーレムはゆっくりと頷いた。
「チェリンカではなく、ユーリィが願った思いがあるはずである」
問われて、ユーリィは思考を巡らせるように俯く。
「アイツを……、父さんを殺したアイツを、――――許せない、殺したい……って」
その目に憎しみを湛えつつも、言葉に変えることを躊躇いながらユーリィは数年前の感情を吐露する。
「それである」
アルハナーレムは腕をばたつかせた。
「ユーリィの感情を感じ取って、チェリンカはすべからくクリスタルの力を行使したのである。けれど負の感情とクリスタルは相容れぬものなのである。チェリンカの心は大きすぎる力の行使と負の感情に対する拒絶反応で壊れてしまったのである。力の代償とはそういうものなのである」
「………………」
淡々と紡がれる言葉に、ユーリィが震えた。そして、耐えきれずといった観で横たわるチェリンカから顔を背ける。
「じゃあもうチェリンカ、戻らないのか?」
黙り込んでしまったユーリィに変わって、ナッシュは口を開いた。
「結論を急くな若者、である。それについさっきまでチェリンカは元に戻って笑っていたのである。考察力も不足しているのである」
ナッシュの言葉に首と指を振って、アルハナーレムは続ける。
「心が崩壊したチェリンカが元に戻れたのは、ユーリィが年月をかけて壊れたチェリンカの心を戻していったからだと考えられるのである。力を行使するのに等しく代償が必要というのは、言い換えればその代償を埋め合わせれば失ったものが取り戻せるのである」
最も、手遅れという事態もあるのであるが――。そう小さく付け加えて、アルハナーレムはため息と共に一旦言葉を句切る。
それから、肩を落すユーリィの頭をぽんぽんと優しく撫ぜた。
「つまり負の感情によって傷つけられたチェリンカの心は、ユーリィの生の感情によって補われ戻ることが出来たのであるな。そう、例えば復讐の為に剣技に心血注ごうとも、日々忘れることなくチェリンカの髪を梳ったり、そういった些細な積み重ねがチェリンカの心を再び形作っていったのである」
「でも、じゃあどうして今になってまたチェリンカは戻ってしまったの?」
撫でられて顔を上げたユーリィが、遠回りの中で語られなかった一番聞きたいであろうことを口にする。
「それなのであるが……」
と、アルハナーレムは言葉じりを濁した。
「これは、推測に過ぎないのであるが、おそらくチェリンカの心は完全に復元されていなかったのである。不安定なその状態で、多分ユーリィが――」
そこでじっとユーリィを覗き込み、それから静かに先を続けた。
「負の感情を持って、チェリンカに接したのではないであるか? それをチェリンカは敏感に感じ取ったのである」
ナッシュの視線の先で、ユーリィは白くなるほど唇を噛みしめた。おそらく、ナッシュと同じく直前口にした言葉と感情を思い出しているのであろう。
わめくことも泣くことも自身を呪うことも堪え固まってしまったユーリィから、アルハナーレムへとナッシュは視線を移した。
ナッシュにとって原因はどうでもいい。問題はチェリンカがどうなるかである。
「死ぬのか?」
「ナッシュっ!」
簡潔に尋ねると、ユーリィが吼えた。殺意すら滲ませてナッシュを睨み付けてくる。
「勿論、死なせるわけないのである」
アルハナーレムも力強い口調で断言すると、ベッド脇の椅子から立ち上がった。
「アル、どこへ――?」
そして、歩き出す彼にユーリィが声を上げると、振り返ることなく返事がやってくる。
「蔵書を漁ってくるのである。どこかに必ずヒントがあるはずである」
「僕も行く!」
玄関を出て行くアルハナーレムの背中を、慌ててユーリィが追った。そして、後にはナッシュと横たわるチェリンカだけが残された。
「………………」
無言で窓縁から下りると、ナッシュはチェリンカの横たわるベッドへと歩み寄る。
「――――――」
近づき覗き込んでも、チェリンカから反応は返ってこなかった。そうやってただ横たわり、もう二度とナッシュをその瞳に映さないまま逝ってしまった人たちを知っている。
「……死ぬのか?」
返ってこない問いかけをナッシュはチェリンカに投げかけた。かつて感じた喪失感が奥底から蘇り、ナッシュの胸を締め付けてくる。
そっと頬に手をあてると、温かかった。死んでいった家族や仲間たちとは違う生きているぬくもり。けれど、みんなと同じようにチェリンカはぴくりとも動かない。まるで物のようだ。
胸が痛い。ナッシュは唇を噛みしめた。自分はもう一度大切なものを喪うのかもしれない。恩も返せぬまま。そして、もう一度笑いかけて貰えないまま。
手の中のぬくもりが失われるのが怖くて、強くしっかりと掴みたい衝動に駆られる。けれど少しでも力を入れると途端に壊れてしまうような気もして、ただそっとチェリンカの頬に手をあてていた。
「チェリンカ」
呼びかける。反応はない。
脳裏で次々と蘇るナッシュのよく知るチェリンカの顔と、目の前の人形のような顔が重なってはぶれる。
笑った顔、怒った顔、戸惑った顔、無理している顔、大人びた顔、子供のような顔、涙を目に溜め怯えている顔――。
まだ出会って間もないというのに、何故だか実に色んな顔を知っている。それが最後には、表情のない別人のような顔に重なって消えた。
「――――また、失うのか」
口を次いで出た言葉は絶望だった。昔、誰一人として救えなかったのは、自分が幼いからだと思っていた。成長し、力さえあれば誰か救えたのかもしれないと信じていた。けれど、成長した今も、結局同じだった。ユーリィたちについて行ったところで、文字は読めない。ただ、邪魔になるのみだ。
悔しさからか、悲しさからか、涙がこみ上げてくる。それは瞬く間に俯くナッシュの頬を伝って、チェリンカの頬へと落ちた。
涙は、まるでチェリンカが流したかのように彼女の頬を伝って唇へと吸い込まれる。
(――ッシュ)
ふと、声が響いてきた気がして、ナッシュは慌てて顔を上げた。
チェリンカを覗き込むと、それに応えるように意思のある目がナッシュを見つめ返してくる。
「!!」
息を呑むナッシュに、チェリンカは微笑んだ。
(心配かけて、ごめんね)
そう笑ってチェリンカは、握手を求めるようにナッシュへと手を差し伸べた。
*
――――幽霊がダメなら悪魔ならどうかな? 赤い目をした悪魔とか。同じ世界に立っているから話せば友だちになれるかもしれないぞ。
'07/09/29